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B町の住宅街にある古い大きなお屋敷に、大きな白い犬がいた。大人しい気性で、吠えられたことは一度もなく、いつも鉄格子の門扉の下に寝そべっていたので、出勤の通りすがりにはいつも手を振ってみたが、反応は鈍かった。見当たらないのは散歩中か、冬場には屋内に入れてもらっているのか、そう思ったらお屋敷の玄関前の日向で丸くなっていたり、そのお屋敷の前では、通り過ぎざまにぐるっと首を廻して犬を探すのが常だった。
今年の夏も所定の日数を勤めたが、ついに一度もその犬を見なかった。「エサを与えないでください」と手書きされた門扉の札もなくなっていた。すぐ向かいの製麺所の人たちは、きっと知っているだろう。いつも通りすがりにお屋敷の様子を首を廻して窺っていた僕は、どう見えていただろう。
Aug. 24, Fri., 2018
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転落・追放と王国
著 : アルベール・カミュ | 短編集 1956–1957年
新潮文庫
転落 / 追放と王国(不貞・背教者・唖者・客・ヨナ・生い出ずる石)
Sep. 25, 2013–Mar. 10, 2015 読了
「なぜ己といっしょに飯を食うんだ?」
「腹が減ってるからさ」
「追放と王国 『客』」より
難儀しながら読んだ割にだいぶ前のことでだいたい忘れてしまったが、「転落」と、山の上の話(客)と労働者の話(唖者)はなんとなく印象が残っていた。訳者解説を読み返し、「客」と「唖者」も再読した。(「転落」は長いからザッと)
「転落」は、自分もこういう論法というか、他人に貶される前に先に降りておくようなところが思い当たり、読んでいて心地悪かった。転落と表現できるほどの高い名声が最初からないのがせめてもの救いだ。
それにしても、どうすべきか知っている(気がする)のに自分から歩み寄ることはせず、手の届く範囲内でしか動かないようなところ、それを自覚しているところ、それをこうやって書いてみるところ、こういうことを告発されているのだろう。
せめて素直に「やりたくない」と言うべきか。いや、ループした。
「客」では、そういうやる気のない拒絶とは異なる拒絶が描かれていた。人々が民族的に単純に敵と味方に分かれてしまう状況の中、敵対民の罪人の罪悪自体は憎みつつも、それと無関係に民族として付与された「敵」としては見做さない態度。味方を裏切ることとなっても、自分の人間性を優先する、反人間性への抵抗。
結末は薄暗いが、気持ちの良い話だと思った。こういう「やりたくない」、を言えたら良いのだろうな。
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blue, blue age
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その後、山の中の遊歩道で、目的地もなく自転車を走らせた。
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この2003年は、どうしようもない自分のつらさと、話し相手になってくれた人たちがいた嬉しさで、トータルすればマイナスではなかったようなこと、それを忘れずにいたいというようなことが当時のテキストに書いてあり、そしてそれらをもう結構忘れてしまったような気がする2018年の自分がいる。
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blue, blue age
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12月30日の朝早く、なんとなく大学の山に登ったついでに、卒業制作の様子を見に行った。
大学施設は20時に閉められる(それでもプロダクトデザイン専攻は学年問わず猛烈に忙しいところだったので、守衛さんたちはいつも閉めの巡回ルートの最後に回してくれた)ため、卒業制作の追い込みの季節になると外にテントが建ち、どこからか引いた電気や誰かが用意した電動工具、Mac、ストーブ、電気ポット、先輩や教員の差し入れなどを駆使して、夜通し作業が行われていた。
誰かが用意して設置したお正月飾りが、狂気を放っていてとても良かった。
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晦日の早朝で、さすがに誰も居ないかなと思ったら、足元にシュラフで寝ている人がいた。
起こさないように、そっとテントを退去した。よいお年を。
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隣のアパートも巻き込んで増殖した「弥生ミレナリオ」。
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blue, blue age
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Merry Christmas.
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blue, blue age
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けやき坂通りのイルミネーションは青色LEDを使っていると聞いて、六本木まで出かけた。祝日で、クリスマス前で、人が多かった。
本当は、イルミネーションにはぜんぜん興味がなかった。「あれ見たよ」という話をしたかっただけだった。
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相模原の弥生荘に帰ると、アパートの有志が「弥生ミレナリオ」を開催していた。
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blue, blue age
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休学中の暇と、何かをしなければならない脅迫感を持て余していた僕は、僕を置いて卒業へと進んで行く同期生たちの卒業制作の手伝いなどをして冬を暮らしていた。
どこの便所の壁だったろう。この日は日曜日で、「年賀葉書を少し買った」と昔の日記に書いてあった。
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この世界の片隅に
監督 : 片渕 須直 | 映画 2016年
イオン・シネマ/シネマ尾道
Dec. 30, Fri., 2016/Aug. 13, Mon., 2018 鑑賞
先日、尾道観光と併せて、シネマ尾道の再上映を観てきた。2016年の年末に初めて観たときには、とても良いものに触れた気分で、それを静かな暮れのうちに観られたのは良かったと思った。
すずさんが、ラジオ放送で終戦(敗戦)を知って怒りを表すところが、今年の真夏の鑑賞で印象に残った。
自分にはどうにもできない大きな力が、ただ毎日家事をこなして暮らしているところにじわじわと侵食してきて、ついにすぐ隣までやってきて大切なものを消し去ってしまう。そしてその大きな力が止むことさえも、自分の知らないどこかで決められて、突然知らされるどうしようもなさ。何らかの都合次第で中止することのできる戦いであったのならば、最後の一人まで戦うという掛け声が建前であったのならば、日々強いられてきた統制や生活の困窮、姪の命、自身の右手などの犠牲は何だったのか、そしてそうしたことに今さらいっぺんに思い至ってしまった自身への悔しさとかやる瀬なさが、あの怒りなのかなと思った。
よりよく暮らしていこうとするふつうの人たちが丁寧に描かれて、教科書のモノクロのイメージで触れてきた戦時中にも当たり前に自然の色彩の中に大人や子供がごはん食べて遊んで怒って愉快に不愉快に暮らしていたのだなと。酷いこともあるけど、物語を観ていて、「愉しい世界」を感じた。
戦争だけでなく災害や事故、大きな社会や組織もそうかもしれないが、個人では対処できない大きな力で、個人をねじ曲げて潰してくるものがあって、そういうものに対抗して、愉しく暮らしてやらんとなと思う。
コトリンゴの「たんぽぽ」に乗せたエンドロールが良かったなと、しみじみ思ぅとるんじゃ。(で、音源を買った)
最後のカットが、終戦何年後かであろう、家の畑から港を見渡す家族の景色なのだけど、それぞれ戦後をどんな感じで生きていったのかなと、架空の人物たちの人生を平成から想ったりしたのです。
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英イースト・アングリア大学のフィル・ウィリアムソン博士は、「この研究では、人類が気候に与えた影響の結果として、地球が『自発的に』冷却化する機会を人類が越えてしまったと指摘している」と説明した。
「人為的な気温上昇の影響で、今世紀末までにさらに0.5度上昇すれば、2度の気温上昇で起きるらしい臨界点越えが発生する。そうなると、ホットハウス・アースなど不可逆の変化がさらに起きることになる」
一方で、研究チームはこのように深刻な問題を人間は理解できるはずだと、人類に信頼を寄せているが、それは見当違いだという声もある。
英ユニバーシティー・コレッジ・ロンドンのクリス・ラプリー教授は、「人類史を振り返れば、これは能天気な希望だろう」と指摘した。
BBC NEWS (Aug. 7, 2018) | 地球温暖化で「ホットハウス・アース」の危険性 CO2削減でも=国際研究
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ヴィヴィアン・マイヤーを探して/Finding Vivian Maier
監督 : ジョン・マルーフ/チャーリー・シスケル | 映画 2013年
シネマ・クレール
Jan. 16, Sat., 2016 鑑賞
今夜はすっかり遅くなったけど、ヴィヴィアン・マイヤーを探してきた。
そして見つけた。もし僕に老後があるとしたら、あんな感じなのかもと思った。くすぶりつづけた火を過ぎた日のノートで鎮火して、自分を置いて行った人を思い出せない。
というようなノートがツイッターに残っていた。あの日とはまた異なる状況と心境にあり、しかし今より二年ちょっと若い自分のピュア・ハートを尊重もするし、素敵なドキュメンタリー映画だったのに変わりはない。
何度歩いても同じような街で、2016年から、また少しフィルムの消費が増えたのだった。
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夜明けの定点観測
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新年あけましておめでとうございました。
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ブレードランナー 2049/Blade Runner 2049
監督 : ドゥニ・ヴィルヌーヴ | 映画 2017年
イオン・シネマ
Nov. 22, Wed., 2017 鑑賞
「本物なのか?」
「飲んでみればわかる」
Okayama City, November 22, 2017.
「仕事」を早めに切り上げたおれは、16時台には日没後のように暗くなった雨の市街を「劇場」に向かって歩いた。真っ黒の外套は、“雨の中の涙のように”消えたあのネクサス6型への「R.C.P.(リスペクト・コスチューム・プレイ)」だった。残念ながら、2017年のおれの傘は光らない。
「地下鉄」で人造サンドウィッチと植物ペーストを補給し、電磁エスカレーターで「劇場」へ上った。そこはQRコードで予約チケットが発券される「2049年」だった——
おそらくそれほど遠くない将来、人間の思考や感情と変わらない振る舞いをするAIが登場するだろうし、望む望まぬに関さず、それをコアにして高等生物のような何かも生み出されるだろう。1982年の「ブレードランナー」で描かれた2019年には良くも悪くもほど遠い現在だが、そこで描かれていた状況自体は遠いSFの物語ではなく、むしろ身近に迫っているように感じられる。
タンパク質の間の電気信号と、電子回路の電気信号に質の違いがあるのか。明らかに異質なのに自分たちと変わらない振る舞いを見せられたとき、どう対応するのが良いのか。相手が痛がっているのか、「痛い」というプログラムが働いているだけなのか、しかしそれは生身の脳神経も同じようなものではないのか。はたまた、痛みであろうがプログラムであろうが、異質な作り物と見做して何も感じないでいられるのか。
しかしよく思い起こせば、人間同士でも民族やら宗教やらで既にグズグズだった。
21:00終幕後にまっすぐ早歩きで滑り込んだ本格イタリアン「SAIZERIYA」で、500mlの白ワインに溺れながらノートに書きなぐったいろいろの再構成。
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