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相模原橋本方面O車組はバッティングセンターで〆。
2003年の7月19日。帰宅はたぶん日付またぎ。
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どこかのファミレスで晩飯食ったあとは、東京方面、相模原方面など車ごとに解散した。
心地良い寂しさのあるあの感じ。またすぐ学校で会うのだけど。
ゲーセンで鍛えたドラテクを披露しつつ、徐々に怪しくなる自己を律するために眠眠打破類を接種するO氏。
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爪木崎から撤収して、伊豆を北上する帰路。
途中で立寄った滝(浄蓮の滝)ではわさび園の緑が鮮やかで、登った丘の広場で野球をしようぜと、ちゃんと野球用具持ってきてたのか……
所属の専攻では伝統的にサッカー文化が根強く、学年対抗戦などがよく開催されていたが、僕の代ではその流れからはみ出すように野球が流行った一時があった。
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ボールが行方不明になってゲームセット。
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振り返り爪木崎。
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前の日に、浜で見つけた大きな流木をベンチにしようと転がしてみると、裏にびっしり群れていたザトウムシたちが散り散りに逃げ出した。クラスメイトたちも散り散り逃げ出した。
翌朝はすべてが静かだった。
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2003年の7月19日。
夜明けの爪木崎。
どこで寝たのか憶えていない。
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ダンスアクト
著 : 阿久津 隆 | 小説
zine
Mar. 18–June 1, 2015 読了
いつだったか地元で開かれたzineの展示会で買ってきた。文字だらけでモノクロのストイックな造本で、ブログ出現前の文学系テキストサイトの雰囲気を感じて手に取ったのだ。
そして所有に満足して放ったらかしにしていたのを、熟成ウン年目の今年春からぱらぱらと読み始めてみた。
おそらく著者の身近な見聞や実体験を下敷きにしたと思われる生っぽい若者ライフ描写が重層的に重なり合って、ひとつの線に収束していく、のではなく、そんなライフがなんとなく流れて過ぎていくといった感じの21世紀の空気が、楽しいけど不穏なもやもやが全体に漂っている。自分の青春模様とは全く違う文化圏の出来事ながら、世代もおそらく近いせいか、なんとなく解る感じがする。なんとなく。
太い縦糸になり得るような社会背景も描きながら、主人公たちは直接絡むことなく、いろいろな不明点を残したままふわっと終わるのが良かった。
僕ら、そんなもんだと思う。
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重い腰を上げてようやく、外出用のカバンを作った。前作が破損してから、代用品のまま漫然と1年以上を過ごしてしまった。
机上の設計を確認するために近場で揃えた布で急造した試作だが、耐用テストを兼ねてこれで夏を乗り切ろうと思う。33歳夏の水玉ポップ。
既製品へのほんの少しの不満からバッグの自作を始めて10年近いが、最初に作ったのが一番まともな設計で、一番使いやすかった。だんだん面倒くさくなってあれをオミットこれをオミット、ついに次元までオミットしてすっかり2次元設計になった。
10年後にはただの紐(1次元)を提げて歩くモードがキブン。
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外は春の雨が降って 僕は部屋で一人ぼっち
夏を告げる雨が降って 僕は部屋で一人ぼっち
昨夏以来の衣に袖を通してみると、僅かに腕が太くなっているのを感じる。スポーツ少年時代よりもマメに継続している筋トレの所為だと思う。
あの頃のように走ったり跳んだりする用事はないので、ただ業務に必要な筋力の維持が目的なのだが、それでも続けていると肉が増えるのかと、競技引退16年目にして初めて実感している。
昨年は、筋力不足を実感し、惨めだった。渾身の暴力と、その結末を見たかった。
今年は、肉だけあっても仕方がない。
ところで応用美術業者に必要な筋力とは、脳の血液を循環させるための筋力のことだ。
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一族の始祖にあたる山の百姓の男は、あるとき旅の僧が行き倒れているのを発見した。駆け寄った百姓が水筒の水を僧に差し出し与えると、ほどなく息を吹き返した。
ひと心地ついたと見える僧に、百姓は自らの昼弁当を差し出し言った。「食うかい?」
その僧こそが若き日の弘法大師空海であった。
斯くして一族には永久末代まで有効の「極楽浄土パス」が発行され以下省略。
こっちの方がドラマティックで良かったかも知れない。
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本籍地の山は、今でこそ過疎の村落に過ぎないが、かつては備前国中に権勢を振るった寺院の根拠地として栄えた。
我が“O(オー)”の一族もこの山を拠点とし、高台より見える一帯とそのまた向こうまでをも支配した、室町時代より続く豪農の家系であった。その支配領域は“空中庭園”と呼び称えられたという。
一族は代々、莫大な財を寺院に寄進し、寄進開始百周年のある年に「極楽浄土パス」を拝受。そのご利益として、戒名字数増量特典が永久末代まで付与されており、一族の墓地では墓石に刻みきれなかった戒名が地面にまで延々とつづいているのだ。
そんな一族に転機が訪れたのは江戸時代初頭。「ばら寿司」の具材を巡って、岡山藩主池田家と対立した寺院が焼討ちに遭い、“O”の一族も農地を没収され小作農の解放が進んだ。
以後はごくありふれた兼業農家として細々と米や野菜を育て、激動の近代を健康に乗り切った。
現在、一族の後継者が順調に育成され、プリキュアも見るそうだが、詳しいことは判らない。私は後継争いに巻き込まれぬよう、日々ぼんやり過ごしている。
余談だが、江戸時代の叛逆の罪科により、一族は今も池田動物園への入場を禁じられている。
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過ぎたことが気になる質で、ここしばらくの時間の過ごし方は酷い。それが自死だという危機感が足りない。
もう6月なのだということを発見した。23時過ぎの澱みから「もう少しやらねば」と踏みとどまっているうちに無駄すれすれの成果を得て27時。作業を止めて、眠くなるまで読もうと思った読みかけの本を、結局おしまいまで読んでしまって、丁度心地良い眠気も訪れた28時に消灯。もう何も憶えていないが、愉快ではない、しかし得難い印象の夢の感触から目が醒めて、時計を見ると4時30分で、消灯前に真っ暗だった部屋の窓枠だけが薄明りに浮いていた。
夢を思い出そうとしているうちに眠りに戻れなくなった。灯りを点けると、眼鏡の向こうに本棚が見えた。
そういえばさっき本を読み終えたので、次に読む本を選べるのだと思った。それでも昔ほど幸福を感じなくなってしまった。ただ気分がくたびれているのか、未読のストックに興味を持てないのか。
板切れに平積みされた文庫本を数えてみた。123冊あった。そのうち57冊はまだ読んでいない。
自分で買ったものばかりではないが、全く興味を抱けないものも多い。学生時代に安値でかき集めたストックを消化し尽くすまで、積極的な増書は控えようと思ってきたが、もう素直に興味が向くものを買ってきたり、好きな本をいくらでも再読すれば良いのかも知れない。僕の読解力では、広い世界を読み解くには人生が足りないように感じる。
ストックにもまだいくつか興味の持てるものはある。
有名タイトルのSFとか、読む期を逸したような若者の悩みの書、存在の軽さとか日々の泡について、あとは、狂った芥川を読みたいのだけど新潮のナンバリングに従って読んできたので先に戯作を読まねばならんとか、つまらないので後回しにしているうちに未読ばかり溜まってしまった三島とか、同じ装丁の下巻が見つからなくて手を出せない白鯨とか。
それでも選ぶ感触は消去法のようで、たぶん読書が嫌いなのだと思う。
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