fantastic short story
青い山
結局私は、朝が(曇り空ながら)部屋を薄明るくする頃になっても眠ることができなかった。何故なら、私はその代わりに昨日の日中、一度も太陽を見ることなく眠り続けたからである。
八時を回るのを待ち、掃除機をかけ、歯を磨き顔を洗い前の晩の食器も洗うと、湯を沸かしてコーヒーを淹れた。インスタント、UCC、ローファットミルク、スガーはノン。一口。その頃にはもう、私は眠くて仕方がなかった。コーヒーは歯の隙間から全てこぼれた。
今日と云う今日はギャラリーに行かなくてはならない。いつか行こういつか行こうと想う日々を重ね、遂に展示は明日が最終日であった。明日の土曜は混雑が予想される。私はコーヒーだらけの寝間着を脱ぎ捨て、都心へ出る際にしか着ない、取って置きのおしゃれ着を纏った。イチバン高いやつ!
少しでも体力を温存する為に、駅までの遠い道のりを、右半身と左半身を交互に眠らせながら歩いた。
いつもの倍、時間が掛かった。
***
眠気を引き摺って先ずは日比谷線で銀座。gggで祖父江慎氏の展示。
小さなギャラリーに、朝も早く客は私一人。吉田戦車氏の「伝染るんです」の巨大垂れ幕の漫画を眺め、にやけ笑い。ギャラリーのおねえさんたちもカウンターの奥でひそひそ笑い。
……嗤われてる、嗤われてる、きもいって嗤われてる。
嘲笑を背にgggを出て、日比谷まで銀ブラ、千代田線で乃木坂まで、本日のメイン、青山のギャラリー・間の小泉誠氏の展示である。
恥ずかしながら、私は氏の作品を見るのは初めてであった。展示は放置もいいところで、そこ彼処に配された作品に自由に触れ、座り、持ち上げ、裏を覗き、味わい、食すことができる。
氏の作品のフォルム、素材、空気感、いづれも溢れ出るような一貫したやさしさ、私はそこに郷里の母の姿を見い出し、展示品のスツールにすがりついて泣いた。私はきっと六年分泣いたのだ。
ファイルケースや図面入れの丸筒を提げた、いかにも建築系の女学生たちが私を避けて奥へと進んで行く。スカートとブーツとの間に白く覘く、若い肌のおみ脚。私は美しいものが好きだ……
ギャラリーを出た私は、南青山五丁目のカッフェーでノオトに綴る。今日の感動が、薄まらぬうちに。
ブレンドを頼むと「薄いのと苦いの二種類ございますが」と云われ、コーヒーは苦いものだと思ったので苦い方を頼むとエスプレッソが出てきた。エスプレッソはあまり好きではないので、コーヒー以上に苦々しく思ったが、私は大人なので平静を装い、エスプレッソの流儀に則って溶け残る程の砂糖を入れて胃を痛めながら飲んだ。
いつだったかこの店で、素敵なアイスコーヒーを飲んだのは良い思い出だ。
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外は冬の訪れを思わせる冷たい風が通り、結局一日晴れ間を見せなかった空の色は、傾いた太陽に引きずられ夜に向かう気配。
日が短くなったものだ。あの頃から幾月だろう。そうだ、今日は今秋初めてマフラーを巻いたのだ。
眠気や、駄目想念や、女性の脚を見ながら、青山通りを渋谷駅に向かって歩いた。
……
かつてアルカディアにおいて
迷夢の海岸砂を踏む
街は陽炎に覆われて
僕は終わらない死を待った
かつてアルカディアにおいて
広場で手首に傷つけた
陽気な世界で Looking for my heart
僕は君にまた嘘ついた
秋山 勝彦「かつてアルカディアにありき」より
……オワリ
平成十七年 霜月 十一日 初稿
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大学を出たものの仕事がなく、やっと雇われた先ではクビになり、追い討ちをかけるようにアパートの取り壊しを通告される。平成十七年、生きることは単に死んでいないことであった。
少しでも気分を立て直そうと意気込んで都心へ向かった<私>が、そびえ立つ青い山の果てに見たものとは。
現代社会を破滅的なユーモアで切り取った幻想大作掌篇。
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