short story
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メリークリスマス
地上へ出る階段を昇るあいだに、新宿駅の地下道に満ちていたむせ返る暖気は薄れていった。ジャケットの隙間から入り込む冷たい外気が心地よかった。僕は京王線を降りてからずっと早足で、階段を昇りきると、すぐ脇にあったドトールコーヒーに入った。
考えもなく注文し、すぐに出てきたSサイズのアイスコーヒーを受け取って奥の階段を昇った。二階は席が埋まっていたので、三階に昇った。そこも混み合っていたが、見渡すと窓側と反対隅のテーブルがふたつ空いていたので、奥側のテーブルにアイスコーヒーを置いた。暖房と人いきれに晒されて、無数の水滴に覆われていた。
やっと今日の計画に追いついた。滑り落ちたグラスの水滴が、テーブルに円形の水溜まりをつくった。
***
今日もいつも通り、夕刻に目を醒ました。
アパートの畳に、オレンジ色の日射しが細長く貼り付いていた。強烈な夕日から届いたそれも、眺めているうちに刻々と弱くなり、終いには、畳も、壁も、窓から見える空も、まだ布団をかぶっていた僕も、分け隔てなく陰に混ざっていった。
始まりの目醒めに見る、ある一日の終わり。
昨日もそうだった。たぶん、一昨日もそうだった。はっきりと思い出すことはできなかった。「明日こそは」と思いながら床に就いたかも知れないが、その“明日”が今、目の前で西の彼方へ沈んでいった。
何時だろう。何時であっても大した意味はないとも思ったが、もうひとつ確認したいことを思い出したので、暗闇の中を手探り、枕元にあるはずの携帯電話を探した。
16:52
12月24日(水)
確認はすぐ終わった。やはり着信はなかった。
モニターのバックライトは暗闇の中でひときわ眩しかった。そうか、クリスマス・イヴじゃないか、今日は。世間並みには縁遠いと思っていたので、それについて今更どう思うこともなかったが、一年の終わりが近づいているということについては何かを思わずにはいられなかった。いつからこんな調子だっただろうか。このまま年を越すのだろうか。この日々が、明日も、明後日も、来年も、ずっとつづくのだろうか……
連想ゲームのように湧いてくる不安を巡らせるうちに頭が醒めてきたのだろうか、ある思いつきが生じた。それは全く馬鹿げた計画だった。
もう日が沈んだ今から、新宿行きの急行に乗る。喫茶店で本を読むために。
ただ喫茶店で本を読むために、新宿へ、陽も沈んだ夕刻に! しかもよりによって、クリスマス・イヴに。
どうしてこんなことを思いついたかは解らない。だが、閃いた瞬間からこの計画が頭の中を殆ど目一杯に支配した。やるしかないと思った。目醒めた直後の沈鬱が嘘だったように昂揚した気分に包まれた僕は、さっそく支度に取りかかった。
***
窓の外のオフィス街はすっかり夜の景色になっていた。安っぽいシートに腰を下ろし、鞄から文庫本を一冊取り出した。何週間も前から進まないSF小説。難しくはなかったが、なかなか本に向かう気分になれなかったのだ。
アイスコーヒーにミルクを落とした。暗褐色と乳白色のコントラストが綺麗だと思った。乳白色が渦を巻いてゆっくりと沈下していくのをそのままに、グラスの底のまだ純粋なコーヒーを一口吸った。ぱらぱらと先頭から頁をめくり、ざっと復習をしてから栞の頁を開いた。異星人に連れ去られた男が、自身の過去と未来を行き来する物語だ。囚われの男は退屈しのぎに本を要求する。与えられた異星の書物は記号ばかりで電報のよう。始まりも終わりもなく、教訓も原因も結果もない——云々。
馬鹿げた計画は実施に移ったのだ。口元が緩むのを感じた。誰にも見られていない確信はあったが、それを押さえ込もうと努力した。
店内に満ちたざわめきは互いにぶつかり合って均質化され、ある種の心地良さを感じさせた。来たときに空いていた隣のテーブルには、今は女の人が席をとってホットコーヒーとミルクレープをつついている。
小さな空間に大勢の人々がおり、それぞれの事情に応じて会話を交わし、あるいは誰かを待っている。そしてそのいずれもが僕と無関係であることが、何よりも僕を安心させた。東京の人ごみの中を歩いているときにふと感じる、自分が存在しないような感覚。これだけ多くの人がいる中での、完全な孤独。僕は安心のうちに本の世界に没入することができた。
時空を超越した異星人は言う。“いやな時は無視し、楽しい時に心を集中するのだ” それがいいと、僕も思った。今、それを実践しているような気がした。放ったらかしていたアイスコーヒーは、ミルクとコーヒーの境がなくなっていた。段落の合間合間に一口ずつ含んで、隣席のミルクレープの微かな香りと一緒に堪能した。夕方に起きてから何も食べていなかった。女の人の手許で携帯電話のストラップが小刻みに揺れているのが横目の視界に入った。
「いま新宿で本読んでる」といったようなメールを、僕も送ってみようかと思ったが、やめた。僕には今日、着信がなかったのだ。
店内は相変わらず混み合っていた。隣で度々響く着信のバイブレーションも、いつしか周囲のノイズに溶けていた。数人連れが席を立ったと思えば、またすぐに別の連れ客がトレーを持ってやってくる。永遠の夜を想った。夜明け前に眠り、日没後に目覚める。陽の動きを知ることなく、毎日変わらない闇夜を渡る。隣は相変わらずストラップを揺らしている。捕虜収容所のイギリス人将校は言う。“自分の容姿に誇りを持たなくなったら、きみたちはまもなく死ぬだろう”……
***
物語に入り込んでいた僕を新宿ドトールに引き戻したのは、ある一瞬の静寂だった。それは本当に偶発的かつ一瞬のことだった。すべてのテーブルで同時に会話が途切れたのだ。店内はすぐにまたざわめきを取り戻したが、顔を上げた僕はフロアの様子が変わっていたことを知った。人が随分と少なくなっていた。
時計を見た。閉店まではしばらくあるが、家に足が向いても良い時刻だった。仕事納め前の平日なのだ。
物語は終盤を迎えていた。隣の席からは煙草の煙が流れてきて鼻をくすぐっていた。甘い香りがした。ミルクレープも、コーヒーのカップも空の様子で、代わりに小さな灰皿に吸い殻が積もっていた。携帯電話はいつ頃からか沈黙したままだった。テーブルの端から賑やかなストラップが垂れ下がっていた。
残りの頁数が気になり、先刻までのような没入ができなくなっていた。物語を読み進める愉しみに、終わりの意識が混ざり始めた。煙草を置いてきたことを僕は後悔していた。
今日というろくでもない日の、その最後に、新宿まで繰り出し、喫茶店で本を読んで、帰る。思いついたときは計画自体の無意味さが興奮にも似た愉しさに作用した。実際にここで本を読んでいるときもそうだった。だが、物語に終わりが近づいた今、その無意味さが重く感じられた。結局、寝起きから無駄にした一日の最後に、さらに無駄をつけ加えただけだったのではないか。
手許の本の物語は失せ、文字列だけが残った。深い溜息が思わず口をついた。隣の人が少しこちらを見たような気がした。横目で様子をうかがうと、指に挟んだ細い煙草を口にした横顔が見えた。少し年上だろうか。すぐに目を外し、溶けた氷を啜った。
こんな日にひとりで何をやっているのだろうか。ひっきりなしにメールを交わしていた相手、今はメールを送ってこなくなった相手は、誰だろうか。おねえさんの左手の細い指が、テーブルの端の携帯電話を開こうとしてやめたのが見えた。
人が疎らになり、窓の外がよく見えた。外は相変わらず夜だった。夜は、一度夜になればそれ以上暗くはならない。均一の夜が明日も明後日も、何も変わらずつづくのではないか。
薄い用紙数枚だけとなった残りの頁の中から、こんな節が目に入ってきた。“神よ願わくばわたしに変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ”……
物語を少し残して、僕は本を閉じた。その上に両掌を重ねて、窓の外のビル街の灯りを眺めていた。
どのように思考を巡らせていたのだろう。そこにまた、ある思いつきが生じた。それは今日の夕刻のような昂揚を、やはりもたらした。わざわざ新宿まで出かけて喫茶店で本を読んで帰ることなどよりも、さらに馬鹿馬鹿しいことのように思えた。しかし、そんなことができるものだろうか。
いや、やろう。やってみせよう。どうせなら、とことんだ。
僕は腕時計に目をやり、本を鞄に収めて席を立つと隣に聞こえるように言った。
「メリークリスマス」
言ってしまった。僕はおねえさんの顔を見なかった。聞こえたかどうか確証はない。ただもう、可笑しいやら、恥ずかしいやら、逃げるように店を出た僕は、閑散とした西新宿のオフィス街を、躍るような足取りで歩いて行った。
熱っぽい頭が、急速に冷えていった。
平成二十五年 如月十日 第四稿
平成二十四年 師走 二十五日 第三稿
平成十九年 葉月 四日 第二稿
平成十五年 師走 二十五日 初稿
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牛のもうもう鳴く声に
神の御子はめざめます
けれど小さなイエスさまは
お泣きになりません
本作はフィクションですので。
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