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一生に一度の月
小松 左京 著 | 掌編集 1979年
集英社文庫
Feb. 11 – Apr. 11, 2012 読了
あ〜、人生を無駄にした。
私、小松先生の本はぜんぜん駄目みたいです。どんなにつまらなくても、難解でも、時間が掛かっても、読み始めた本は必ず最後まで読むことを銘じているつもりの私が唯一途中で投げたのが小松先生の「さよならジュピター」でした(それでも上巻だけは全部読んだ。苦痛だった。劇場版は、失笑SFの最高峰)。
どうも文章がクサくていけない。合わない。小松先生の本にはもう手を出さないことにする。
この本はショートショートばかりなので我慢して全部読んだけど、どれもあまりおもしろいと思えない。作品よりも途中でたびたび挟まれる対談の方がおもしろかった。成功したひとの昔話はおもしろい。
ところで、収録作の一部が連載されていたという「団地ジャーナル」という雑誌の存在が気になった。
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津軽
太宰 治 著 | 随筆 1944年
新潮文庫
Oct. 15, 2011 – Feb. 9, 2012 読了
人は、あてにならない、という発見は、青年の大人に移行する第一課である。大人とは、裏切られた青年の姿である。
読み終えたのがだいぶ前でちょっと忘れかけているが、明るいお調子者の太宰が読める本である。読了までに四ヶ月もかかっているが、どういうことか、忙しいはずはなかったし難解な書ではない。どうも東京を出て以降の読書量の低下は、鉄道に乗る機会がめっきり減ったのが原因ではないかと可成り本気で思う次第である。
この随筆は三十六歳の太宰が生まれ故郷の津軽地方を旅した際の出来事を綴ったもので、思い出の地や人物などのエピソードも多い。そのあたりのことは、太宰の最初の創作集「晩年」にも綴られている。
「晩年」でも登場した幼少期の母親代わりの女中に会いに行くところがクライマックスだと思う(随筆にクライマックスもくそもないか)。嫁入り後の姓と住んでいる町だけが手掛かりという状況で、なんとか住まいまでは辿り着くが、たけ一家は留守不在。東京へ帰る汽車の時間もある。この人のことだから会わずに帰っちゃうんじゃないかと思ったら、ちゃんと見つけて三十年ぶりの再会をしちゃうと、ちょっとホロリとしてしまった。この数年後に修治は死んじゃうのが判ってるから、余計に。
「晩年」が堪らなく陰鬱としているのに対し、「津軽」は、自虐ネタで笑いをとるような感じではあるが、かなり明るい。やはりこの人、本気で死ぬ気はなかったのだと思う。「おれってダメなんだよな〜」とのらりくらり、昭和を生きていて欲しかった。できればツイッターの時代まで。
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exhibition
exhibition no. 12
Inujima 2010
2010年夏、百連休の苦しみに悶えていた私は、インターネットを漂ううちに犬島へとたどり着く。初めて上陸したその島で潮風に触れた私は、そそり立つ煙突に我を失い、めくらめっぽう撃ちまくった。
写真記録。画像クリックで入場。全 8 ページ。
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blue, blue age
high-res: click this picture
昔のフィルムを整理している中で見つけた。jpeg にしてしまうとわからないが、それぞれのコマが35mm判よりもひと回り小さい。ストリップの記載などから調べたところ、「写ルンです」の APS フィルムであることが判明した。
自分で撮った記憶も怪しいが、写っているものを見ると確かに自分で撮ったようだ。橋本のアパート、池袋のサンシャイン60、コメット☆さんのDVD発売イベント……笑(撮影時期はこのイベントの日付からの推定)
それにしても酷い。碌なものを撮っていない。このときもう二年もフルマニュアルの一眼レフを振り回していた自分が、何故 APS の写ルンですなどを持ち歩いていたのだろう。謎である——
と、ここで締めくくろうと思っていたのだが、人間の記憶装置というのは恐ろしいものだ。このテキストをタイピングをしているうちに思い出してしまった。
***
それはこの前年、2001年の暮れにさかのぼる。
ついに人類は木星へ到達することもなく、12月 25日のクリスマスを迎えていた。雪が降っていた。私は性交の相手も居ないので、橋本のアパートで独り煙を吐いていたのだと思う。
そこへドアをノックする音。誰ぞ近所の独身お仲間が遊びにでも来たかと思い、はいはいとドアを開けたところの隙間から見えたのはいかついオッサンの顔であった。もちろん知合いであるはずはなく、私は経験からこいつは新聞屋だと直感的に判断し、すなわち用事はないので問答無用でお引き取り願おうとドアを閉めようとした。
そこで予想外のことが起こった。オッサンが閉めようとするドアに足を差し挟んだのだ。
オッサンの顔を見ると、いかつい顔がさらにいかつくなっていた。
「オイ、オマエどういうつもりじゃ。いきなり失礼やろが」
「は? すみません、何がですか?」
「いきなりドアを閉めるんが失礼やろが言うとんじゃ!」
私は内心かなり怒りっぽいのでたぶんこのあたりで頭に血がのぼった。頼みもしないものを売りつけにきた人間から、何故このように言われねばならんのか。
「ぁあ? 何が“シツレイ”じゃコラ! 新聞なんぞ要らんけぇ帰れ言うとんじゃ!(岡山弁)」
「ンやとコラ、誰も新聞売りに来たなんて一言も言っとらんやろが!」
「じゃアンタは何しー来たんじゃオラ」
オッサンの手にはジャイアンツグッズの鮮やかなオレンジ色が見えた。確かにオッサンはまだ商談を持ちかけてはいなかったが、おそらく読売の拡張員だろう。
「知るかボケ! お前には関係ないんじゃ!」
「ハァ? 自分が何しー来たか知らんって、アンタ阿呆なんじゃねーの?」
「んだとテメェ、もっぺん言ってみいや!」
「おお何度でも言うちゃるわ、阿呆! 木瓜! さっさと帰れや!」
!? ビキィ
かなり長い間、玄関先で言い争いをしていたような気がする。どちらも頭に血がのぼっているので、ほとんど小僧の口喧嘩の様相だったと思う。
私はあまり喧嘩に自信がないので玄関から一歩も出なかったが、内心ではブチ切れたオッサンが住居に侵入してきて殴り掛かってこないものかと期待していた。そうなれば堂々と K察にお仕置きしてもらい、寒い冬にオッサンは職を失うというシナリオを想定していたのだが。
残念ながらオッサンは手を出してこなかった。しかし、口論の果てに遺していった捨て台詞は強烈であった。
「オマエ、おぼえとれよ」
というわけで十年以上も昔のことを憶えているのである。こうしてテキストにしてしまったことで、この胸くそ悪い記憶はさらにしっかりと定着するだろう。
どう見てもヤクザ風のオッサンに「おぼえとれよ」などと恫喝された二十歳の私は、明らかに住居が割れているという不利な条件から自衛の必要に迫られた。その一環として写ルンですを持ち歩いていたのだ。例えば学校から帰宅した際に玄関先で不審者を見つけた場合の記録を残すために、暗くても写るように感度は800、フラッシュ付きで。デジカメの普及はもう少し後のこと。
上の写真は、どうやらもう何もなさそうだということで 2月頃にてきとうにつぶしたショットのようだ。
オッサンはあの日のこともう忘れてるだろうな。悔しいぜ。
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ノートルダム清心女子大の近くにて。管理者はいつも汝を見ていらっしゃいます。
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